連載「魂の旅」 -ソニア物語-

魂の旅 その1

『もしあなたの魂が生まれ変わる前からあなたのDNAを選び、
あなたの両親を選んでいたのだとしたら。
そしてあなたのその魂が運命の働きとなり、
そしてまたあなたを導く守護霊となっていたとしたら。
そんな見方をしたときに、あなたの人生はこれまでとは全く違う姿を見せはじめ、思いがけない輝きを放ちはじめる』
プラトンが語った神話のイメージより

私は最近「魂」についてよく考えることが多くなりました。
講演会でもそのテーマについて、
また自分自身の過去についても毎回少しずつ触れています。

私が現在開設しています「アカシックオラクルコース」にて、
皆さんにいちばん知っていただきたいテーマは、
自らのアカシックレコードにアクセスしながら、
自分の魂が生前に決めてきた「ライフパーパス」を知っていただくことです。
私たちは皆、個々が生まれてくる前に、
あらかじめどのようなことを経験したいか決めてくる。
これは魂に関する様々な文献を照査しても明らかで、否定できないことのようです。

私自身のライフパーパスは?
これは今までに自分なりにいろんなことが理解できましたが、
もう少しそれを追求してみたいと思います。
私は昨年7月に60才を迎えました。
自分の人生をもう一度振り返ってみながら、
さらに細かい気づきに導かれることを意図しています。
今から皆さんにお伝えする内容から、
ところどころよく似た経験をお持ちの方が必ずおられると思います。
同じ魂のグループの人たち(Soul Group)との
巡り合いも期待できるかもしれません。
ある本によると、
人生の後半で同じソールグループの人々との出会いが盛んに起きるとあります。

私自身の過去についてこれから何回かに分けて、
このブログでシェアしたいと思います。
一つの出来事に対しても様々なとらえ方がありますが、
できるだけ客観的な見方で進めたいと思います。

三つ子の魂百まで

私を生んでくれた両親に一番感謝したいことは、
自然分娩で私を出産してくれたことです。
おまけに私を受け取ってくれたのは、
白衣姿のお医者さんでもなく、助産婦さんでもありません。
それは父でした。

今の時代では計画的に自然分娩を希望する女性が増えていますし、
私自身も妊娠してそれを選んだ一人です。
しかし、私が生まれた60年前は、
そのような自然分娩ブームでもありませんでした。
当時は産婆さんを呼んで家で出産する女性が多いでした。
私の場合も同じでした。
しかし、私の場合は、まだ産気づいていない母を見て、
産婆さんが昼食に家に帰っている間に私が生まれました。
幸いにも土曜日だったので、父が帰宅しており、
突然産気づいた母から私を受け取るという想定外の分娩となりました。

まったくなんの経験もない父が、私を受け取ってくれたのですが、
私は未熟児でした。
私は産声もあげなければ、三日間ほどまったく鳴き声を上げずに、
乳を吸うこともなかったそうです。
ひょっとすれば、口がきけない子として生まれたか、
あるいはそのまま死んでしまうのではないかとずいぶん親は心配したそうです。
ヒナを暖めるようにして、
新生児の私は母の隣で柳ごうりに入れられていたそうです。

その頃の保育器は、まだまだ完璧なものでなく、
欠陥があり、失明した赤ちゃんが多かったと後になってから母は聴かされました。
あの時病院に送られなかった私はこうして五体満足で育ったかと思うと、
母の直観に感謝です。

私はこのような生命力の弱いスタートを切り、
10才ぐらいまでは病弱で、蚊の鳴くような小さな声の子供でした。
おまけに結核菌をもって生まれました。
戦後少しは経っていましたが、
あの頃結核菌をもって生まれた子供は少なくはなかったのです。
ずっと病院通いでした。
その上私はとても神経質で、
ある時から「小児自立神経失調症」という病名をもらい、
小学校時代は欠席が多く、薬漬けの毎日でした。

性格はどちらかというと聞き分けがいい反面、
変なことにこだわる自我の強さがありました。
幼いころの自分について思い出すと、
小さな体に入っている自分に苛立ちを覚えていたことはたしかです。
幼い自分が感じたことや見ていた夢を今でも覚えています。
記憶を遡ると、ちょうどお座りをし始めたころのことです。
やっと座れるようになった自分の目の前にあった
タンスの取手がいやに大きかったことと、
そして、その取手に必死につかまろうとしたことを覚えています。
三才ぐらいの時に見た夢も今でも鮮明に覚えています。

5才ぐらいの時に私は堺で茶道の先生をしていた叔母から、
茶道の手ほどきを受けました。
ちょうどそのころ、親戚の法事に行ったときに、
そこでいただいたお寿司を私はお箸で掴みきれずに転がしてしまいました。
それを向かい側の席で見ていたあるおばさんがケラケラと笑い出したのです。
行儀作法は自慢だった私は、しくじったことと笑われたことに、
その場で大泣きしました。
そして、なんといっても悔しかったのは、
大の大人が子どものしくじりに笑うということが許せなかったのです。
悔しさに泣くだけではすまされず、
私はそのおばさんを裁くようにやぶにらみして返したのです。
「なんと、恐ろしい子」といわれました。
このような気難しい性格が、
一生を通じて人生を必要以上に難しくしたと今では思っています。
ひとことでいうと変なプライドですね。

私は物心がついたころから動物と通じ合っていました。
そのことは近所でも知られていて、
家の前に捨て犬や猫が箱に入っておかれていることがしばしばありました。
捨てられた動物の面倒を見ることを仕事のようにやっていました。
動物が病気になると、必ずといっていいほど同情してか熱を出していました。

私は「変わっている子」

私は普通の子供ならこだわらないことをとかくこだわる子でした。
母を手こずらせることもよくありました。
外で遊んでいればよいのに、母のそばにぴったりとくっついて、
「私は誰なの?」
「どこから来たの?」
と、彼女のエプロンの裾をひっぱりながらよく困らせたのを覚えています。
「むずかしい子ね」
と母はしょっちゅうそういっていました。

私は姉とはちがい、そんな幼いころから親にとって現在に至るまで、
まったく理解できない部分の多くて、たしかに「むずかしい子」でした。
これは正直に認めます。
生まれながらにして強い感受性と、はっきりした思考があったのです。
そして、人一倍大きな好奇心がこれまでの人生の運び舟となり、
また様々な心身の癒しを必要とする道を選んだように思えます。
それにしても運よく自然出産で生まれてきたことを両親に感謝しています。

私の人生を振り返ってみて、
幼いころにもう一つ大きなイベントが起きました。
それは、6才の時に受けたある予防注射によって引き起こされました。
「初のサイケデリック体験」です。
これについて次回お話します。

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魂の旅 その2
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『いわゆるトラウマ的な体験は、偶然に起こるのではない。それは、子供が忍耐よく待ち望んでいた機会なのだ。もしそれが起こらなかったとしたら、同じようにつまらぬ何かを求めることになろう。自分の存在の理由、向かうべき道を思いだし、また自分の将来のために。人生を重要なものとするために』

W・H・オーデン(20世紀最大の詩人のひとり)

初のサイケデリック体験

私が幼稚園に通っていた頃に日本の一般家庭にはテレビが普及しはじめ、
我が家にも宝物が一台届きました。
ちょうど日本のテレビの歴史がスタートしたころで、
番組はほんのわずかにかぎられていました。
「ちろりん村とクルミの木」、「バス通り裏」が、
いちはやくNHKで放送されるようになりました。
民間放送はまだ少なく、ほとんどがアメリカの番組の吹き替え版でした。
白黒の画面に映る「名犬ラッシー」がはじまるのを、
テレビの前にしゃがみ込んで、楽しみに待っていたのを思いだします。
当時の日本は、まだまだ大戦後の名残がありましたが、
アメリカのベビーブーマーズの波と共に、
日本にも消費者天国の時代が押し寄せてきました。
洗濯機、冷蔵庫といった便利な家電製品がひとつ、また一つと、
我が家の隅々を埋めていきました。
インスタント食品というものも誕生し、
日清のチキンラーメンや即席おしるこの素などが、
駄菓子屋に新しく並びだした時代です。

幼稚園から帰宅した後、
友達とみんなでおこずかい5円をもって駄菓子屋に行く。
これが私の日課でした。
幼稚園の後、まず駄菓子屋で飴玉を買ってから、
暗くなるまでみんなと一緒に野原で遊びました。
そんなある日、駄菓子屋におしるこの元が売っているという噂が流れ、
私たちは急ぎ足で向かうと、やはり店頭に並んでいました。
5円払って友達はみんな一袋ずつ買ったのですが、
私は一瞬ためらいました。
私は飴玉以外買うことを母から固く禁じられていたからです。
虚弱体質だったので、ふつうの子供たちと同じようにはできなかったのです。
しかし、みんなにつられてとうとう買ってしまいました。
母親が仕事でいないタミちゃんの家でおしるこをつくることに決定しました。
みんなで一つ一つのお椀にお湯を注いで、さあできあがり。
私はまるで禁断の実を食べるように、おそるおそるそれをすすりました。

夕方帰宅してからテレビを見て、それから夕飯がはじまりました。
そこまでは普通だったのですが、食欲は全くありませんでした。
それでなくても食が細くて母はいつも大変なのに、
その日は全く箸がつけられない状態でした。
私に異常があると母が察したのは、しばらくたってからでした。

父が帰宅するころには、私は高熱でうなされていました。
私の体に入った異物は、
初めて食べた即席のおしるこだけではなかったのです。
運悪くその日は幼稚園で、腸チフスの予防接種を私は受けていたのです。
今でもはっきりとした原因がわからないのですが、
例のおしること微量のチフス菌が小さな体の中で異常反応を起こし、
騒ぎだしたのです。
布団に寝ながら高熱でうなされているばかりではありませんでした。
突然、正座して目の前の白いふすまを見つめだしました。
おそらく私の瞳孔はひらいたままだったでしょう。
ふすまに映る映像(幻覚)に張りつけ状態になりました。

まるでテレビのドラマを見ているようにちゃんと筋がありました。
底なし沼にラッシーが落ちてもがいて、誰も助けに来てくれない。
「お願い、ラッシーをたすけてあげてぇー」
私は大声で何度も叫び続けました。
そこから気づいたときには病院にいました。
何週間もたっていたようです。
それも一つの病院からまた別の病院に移動させられていたのです。
移転先は伝染患者病棟のある病院でした。
つまり、腸チフス患者として扱われていたのです。
私の意識はその間幻覚続きで、肉体はほとんどお留守状態でした。
熱も下がってはまた高くなるのが続いていたようです。
ようやく帰宅できたものの、高熱と幻覚に何度も襲われました。

そのうち幻覚と現実の境目が分からなくなっていました。
きれいな色のパターンがいっぱい見えたり、
時には恐ろしい映像を見たりしながら何日も床についていました。
そんなある日心配した母がタミちゃんのお母さんを連れて、
私が寝ている側までやってきました。

「この子、大丈夫かしら・・・」と、
おばさんに話しかける母の声は、母の声でしたが、
顔は鬼ヶ島の赤鬼で、おばさんの顔は青鬼でした。
私は恐怖のあまり後ずさりしながら、
「それ以上近づかないで」と悲鳴を上げました。

その時から何日かすると、幻覚もなくなり、
私はすっかり元通り回復したのですが、
ある種の後遺症が残りました。
それは、母親に対する距離感です。
「ほんとうの母親はどこか別のところにいる」
という、なんとも強烈な疑惑があの時から生じたのです。

父にしても私にとっては最初から近づきがたい存在だったので、
「ほんとうの父も母もどこか別の場所にいる」
これは想像力の強い子供ならよくある想像かもしれませんが、
あのときから私の心に芽生えたそんな根本的な疑念が、
あらゆることに対する不信感を抱かせ、
また逆に、
偉大なる存在への憧れと追求へと導くことになったと思います。
両親にとっても私は扱いにくい子供になったことはたしかです。

あの幻覚の日々以降の私の脳は、
どこかで親との絆のような大事な回路が切れてしまったのか、
あるいは、別の回路がつながったのかわかりませんが、
霊感が際立って鋭くなりました。
それは小学校をあがるまでのことですが。
たとえば小学校一年生の入学式の後、
各教室に初めて入ったときに、
クラスの生徒たちの氏と名前がはっきりとわかりました。
面白いので子供たちが私の周りに寄ってきました。
これが普通ではないと知った時にその能力は消えてなくなりました。
また、家の神棚から神様が白い煙のような姿で出入りするのも、
当たり前のように見ていました。

蝶

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魂の旅 その3 臨死体験に至るまで
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私は17才のときにイタリアのウンブリア州ペルージアで生活していた。
もともと私はオーストラリアに一年間留学が決まっていたのだが、
ほか数名の留学仲間はブリスベンやシドニーに向けてすでに出発したというのに、
私だけがホームステイ先がなかなか決まらずに半年も遅れていた。

私はイライラしながらもじっくりとオーストラリア留学について考えてみた。
外国ならどこでもいいという気持ちで応募したことはたしかだった。
その一年前は短期留学で、デンマークにて数か月過ごしたばかりだった。
戻ってきてまだ数か月も経たないうちに私は日本での生活も、
私立女子校もうんざりしていた。
どこにいても自分だけがひとり浮いていた。
デンマークから帰国してからは、まるで別の惑星に着いたような感覚になっていた。
オーストラリア留学がなかなかスムーズに運ばなかった理由は、
ほんとうはオーストラリアに関心がなかったことに私は気づいた。
とはいっても、そのまま日本にいる気持ちはまったくなかった。
あと半年ほどで高校卒業というのに我慢できなかった。
幸いにも私が通っていた私立高校は当時では珍しく単位制で、
それをうまく私は計算し、出席日数が足らない以外は高校卒業をクリアしていた。
私が日本を発ってから学校と両親の話し合いのもとに、
私は一応高校を卒業させてもらったことになっている。

私は親の反対を押し切って、18才のお誕生日の数か月前に、
アリタリア機でひとりローマに着いた。
家出同然だった。
ローマから列車に乗ってペルージアという小さな田舎町に私は辿り着き、
翌日からUniversita per Stranieri (外国人のための大学)に通いはじめた。
憧れのイタリア生活がはじまった。
学校から紹介してもらった下宿先には、
もう一人オペラ歌手を目指す日本人がいた。
それにしても日本人留学生の数はしれていた。

家族やみんなの反対を押し切って進んだ自分の道を
ちゃんと全うするまで日本には帰国できないと、
常にその気持ちが後押ししていた。
なんとそれが5年間近くも続くことになったとは。
だから外国にいても日本人と知り合いになることを避け続けた。
ちょっと小野田さんに似た生活をしていたのかもしれない。

一日も早くイタリア語をマスターして、
専門学部に進まないと、とそれしか私の頭になかった。
最初の数か月は一日に30単語を覚えるという勢いだった。
そのあとちゃんとした専門学部に進めるように準備に必死だった。
そうして一年ぐらい経ったある日、
私は大学の先生たちに自分の進路を相談に行ったところ、
イタリアの小学校からやり直ししなければ、
大学入学は無理とはっきりした答えが返ってきた。
そのあと私は半年ほどそのままペルージアの学校で、
イタリア語を学んだあとイギリスに根拠地を移すことに決心した。

英語ならきっと問題なく大学に進めると思ったからである。
私は小学校2年生ぐらいから海外に出ることばかり考えていた。
だからそのころから英会話学校に通わせてもらい、
おまけに外人の家庭教師までつけてもらい、
中学生の時は弁論大会にでたり、高校一年生で英検2級をとっていた。
イタリアに滞在している間もちゃんとアメリカ人の友だちをつくって、
英会話の練習は続けていたのである。

私はちょうど1971年のクリスマス前にロンドンに着いた。
オックスフォードサーカスのはずれの歯医者さんの家で、
一部屋借りて英会話学校に通うことからスタートした。
一年ほど昼間は英語学校で、夜は美大の夜間コースに通った。
そして当時Oレベルと呼ばれていた検定試験を数科目受けてから、
念願の美大に願書をだした。
ウエストロンドンカレッジに所属する
“Hammersmith school of Art and Building” という学校だった。
ここに入学するにあたり、私はルームメイトのイタリア人女性が勤めていた
建築事務所の社長に頼んで推薦状を書いてもらったり、
あらゆる努力をしてやっと入学できたのである。
一年目は授業についていくのに必死だった。
ちょうど一年目が過ぎようとしていたころ、
学校の雰囲気にも私は慣れてきた。
まだ20才になっていなかった。
夏はペルージアでイタリア語の夏期講座を受けるために
ヒッチハイクでロンドンからイタリアまで一日半ほどかけて通った。
当時はそんなに危ないことではなかった。
私は友人から借りた本を読みながら、
ひとりでヒッチをしていた。
今から思えば、大胆きわまる青春時代だった。

借りた本の中でも私が惹かれたのは、
ランボーの詩とかサルトルの本だった。
いわゆる実存主義の世界に私はどっぷりと浸かっていった。
イギリスに一人で暮らし、
イタリアに一人で旅したりしていることにまったく寂しさを感じなかったが、
心の中では人種差別を受けたいろんな経験や孤独感が募っていたのだろう。
そして芸術というまた独特な世界が重なり、
ある日、私は学校の帰り道で生きていることに意味を失った。
というよりも、あの世に行ってみたくなったのかもしれない。

自殺未遂

気がつけば、私は病院にいた。
ベッドに横たわっていた。
自分の指が二倍ほど膨れ上がっていた。
ここを今すぐ出なければ・・・
私はベッドの横に置かれていた服に着替えてから病院を脱出した。
たしか、地下鉄のbekerloo lineだった。
じっと座って行ったり来たり何往復も終点から終点まで乗っていたと思う。
すると、私のことを知っているある女性が自分の車両に乗ってきた。
「どうしたの?」
彼女は私のアパートまで連れて帰ってくれた。

記憶喪失

私は誰?
まったく自分のことが思い出せない。
あの事故で記憶が飛ばされてしまったのである。
学校の友だちが交代で私の看病に来てくれた。

「あなたは愛知早苗」
そういわれてみればそうかもしれない。
このような状態が約一か月続いた。
記憶喪失というのは、植物人間のようで、
食べる気力さえも失ってしまう。
それにしてもなぜか、
あの時に体験した向こう側の世界の記憶だけが、
生々しく鮮明に残っていたのだった。

もうかれこれ40年以上も前のことで、
前世の記憶に近くなってきている。
これ以上あの時の貴重な体験の記憶が失われない前に、
どうにか残しておきたい。

臨死体験

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魂の旅 その4 臨死体験
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別世界の旅への入口は数字だった。

私は2と3の間に入っていった。

なぜかそれは、フランスとイタリアの国境と重なり意識していた。
中に入っていくとミラーハウスのように
鏡の壁がいっぱいあった。
どの部屋に入ればいいのか迷っている自分がいた。

次なる記憶は、体がまるで筒のように空っぽになり、
上から下へ、下から上へと勢いよく抜けては入りが永遠と思えるほど長く続いた。
やがてそれは暗いトンネルであることに気づいた。
今から思えば、死後の世界において初期段階に現れる、
ほとんどの人が記憶しているあのトンネルを私もまたそこで経験していたのだろう。
死後の世界のトンネルと、
クンダリーニエネルギーの流れと同じなのではないかと、
今となって私はそう解釈している。

やがて私は、
それまでに生きて経験したすべての好きだったことの記憶が再現され、
次から次へと絶え間なく襲ってくる世界におちいった。
美味しそうないちごにミルクがかかっているのが現れたり、
次は大好きなビートルズの曲だったり、
私が好きだった、愛していたものが、その瞬間瞬間が、
次から次へと猛スピードで再現されながら襲ってくる。
その時の私の意識は、普段よりもはるかにはっきりしていた。
全部なにひとつ残すものなく自分が愛した人や動物、モノを、
シャワーのように私は浴びさせられた。
たった19才の私が、
自分のエゴの大きさに嫌気がさすほど見せられたのである。
最初のほうはその再現を楽しんでいたが、やがて
「もういい、それくらいにしてほしい・・・」と私は叫んだ。
するとそれはピタッと止まった。

次なる記憶は、トンネルの向こう側の光があるにもかかわらず、
私はトンネルの壁の中のある部屋の扉を開けた。
ギギギーと扉が開くと、部屋の中はお化け屋敷のようで、
薄暗く、グレイ一色で包まれた古めかしい部屋だった。
そこら中にクモの巣がはられていて、
人の気配が長らくなかったような古い部屋で、
気持ち悪さと恐ろしさが漂っていた。

ハッと気がつくと、
私はその部屋の中央にある楕円形のテーブルに横たわっていた。
テーブルの周りには、小柄で大きな目をした3,4人の存在たちが私を囲んでいた。
人間ではない。
今になって思えば、たしかにあれがグレイエーリアンだったように思う。
1970年代初頭で、
まだグレイどころか、
宇宙人のコンセプトさえあまりなかった時代であるにしても。

そのテーブルに私は縛られていた。
ロープも何もなかったが、身動きひとつできなかった。
彼らは私を見つめながら互いに無言で語り合っていた。
「どこから切開しようか?」
それが大きなアーモンド型の目から伝わってきた。
見渡すと、そのグレイの部屋に、
大きな40センチほどの先が尖った刃物が、
唯一リアルな世界と同じように光っていて、
その太い端を仲間のひとりが握っていた。

「やめて~」と私は大声で叫んだが、動けなかった。
それまでに味わったことのない最大の恐怖を私は覚えた。
彼らには全く感情がなかった。
それがたとえようもないほど恐ろしかった。
ただ実験動物を扱うように、
同情心はみじんもないことをすぐさま私は悟った。
やがて私は完全にあきらめの境地に入った。

その刃物は、上方からゆっくりと私の心臓を目指して降りてきた。
「もうダメ・・・」と思った瞬間、
その刃物はプチンと、
まるでちっちゃな針が刺さったぐらいのインパクトで胸に刺さった。
まったく痛くもなにもなかった。
ほっと安心したのは束の間だった。

その瞬間に私はものすごいスピードで上昇し、
その不気味な部屋を突き抜けていった。
どんどん私は上昇していき、
下方に地球が小さく見えるくらいになっても止まらなかった。
私の体が止まったところは、
宇宙の彼方で、夜空のような青のスペースが広がっていた。
周りには惑星や星が見えていた。
私はあのテーブルに寝かされていた状態のままで宙に浮いていた。

自分の胸のあたりから渦巻き線が、
いくつもさざ波のように宇宙に広がっていた。
私はひとりっきりで、あるのは広大な宇宙だけだった。
意識ははっきりしていて、孤独感に私は包まれていた。
「誰もいないの。一人っきり?!」
私の足元から宇宙に溶けるように消え始めていた。

それでも意識だけがその孤独感と共に残っている・・・
と私は感じていた。
「これが死なんだ。なんてバカなことをしたのだろう。
意識はそのまま残るとは・・・いや、むしろもっとはっきりしている」

すると、どこからか声がしてきた。
「そうです。意識はそのまま残るのです。
しかし、その孤独感はもうすぐ消えますから・・・」

たしかにその声は先ほどの気持ち悪い存在たちのものではなかった。
少なくとも私のことを思っていてくれていると感じられた。
その声が聞こえるや否や、孤独感は消えていた。
最終的には、私はただそこにあるのみという感覚だけが残った。
宇宙の一部である自分だけがはっきりとした意識と共にあった。
「ああ、これで永遠。これでいい」
静寂さとすべてがOKという気持ちだけが最終的に残った。
渦巻きと肉体はほとんど胸のあたりまでだんだんと消えていった。

すると突然、また声がした。
どこからともなく聞こえてきて、
宇宙全体に広がり渡る声だった。
「あなたが所属する村を探したのですが、見つかりませんでした。
あなたはもう一度、地球に戻ることになったのです」

私は病院で目が覚めた。

あの経験から何年もしてから気づいたことだが、
グレイエーリアンというのは、悪い奴らではなく、
むしろ人間が死に至るまでに、
最大の恐怖を浄化するプロセスを担ってくれる役目があるのではないかと。
それならば、
「コミュニオン」というグレイエーリアンについて書いた
ウィットリー・ストリーバーという作家の意見と同じということになる。

あの時の記憶がもっと鮮明な時期に
今思い出されることよりも詳しく書き残していたら、
と思うことがよくあるが、
と同時に忘れたいという気持ちがたしかにあった。
当時は、あの経験以前の自分のすべてを、
一か月ほど思い出せないくらいショックを受けていた。
立ち直るのにほんとうならセラピストが必要だったことはたしかだが、
私の場合、あの経験からしばらくたってから、
ロンドンで偶然にもある魔術師との出会いがあって私は救われた。
私への癒しを超越して、あの経験をばねにして、
とんでもない世界に導いてくれた恩師アルフレードとの出会いがあって、
あの窮地から私は救われたのである。

臨死体験 

臨死体験4

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魂の旅 その5 魔術師アルフレードとの出会い
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臨死体験後の私は魂が抜けてしまったような状態が続いた。
自分はどこにもいなかった。
過去の記憶もなければ、
生きていく気力もなにもない。
心配した友人たちは交代で私のアパートを訪ねてきてくれた。
この人に会えばいい、あの人に会えばいいと、
言われるままに私はついていったが何も変わらなかった。

そんなある日、ある女性の友人が会わせたい人物がいて、
きっとその人なら私を助けることができるといった。
私は彼女に連れられて、あるお金持ちの家を訪ねて行った。
大勢の人々が集まっていて、
あるインド人らしき男性の話にみんな夢中で聴いていた。
ずいぶん後になってから知ったのだが、
それがあの有名な哲学者クリシュナ・ムルティだったとは。
たとえ賢者の前に連れていかれようとも奇跡は起きなかった。

仲間たちは、いろんなところに私を連れて行った。
トーテナムコートロードのハリクリシュナのアシュラム。
グルマハラジのテンプル。
スタートしたばかりのバグワン・シュリ・ラジニーシ(Osho)の
ロンドンアシュラムにも行った。
そこで面白い光景を見た。
地下の瞑想室では、ダイナミックメディテーション
と呼ばれる瞑想をやっているので見てみるかと誘われた。
ドアを開けると大勢の男女が赤い照明の下で、裸で踊っていたので、
私は慌ててドアを閉めて一階の事務所に戻った。
すると受付の男性が、
「君は日本人だから座禅のほうが向いているだろう」
と私に言ったのでそのまま帰ることにした。

そのころになると友達に連れられて、
私はまた美大に少しずつ戻るようになっていた。
そんなある土曜日の昼下がりに、
ふらっと私はひとりでポルトベロの蚤の市に足を運んだ。
向こうから歩いてきた一人の若者に、
「あなたは私ね」と私はつい声をかけてしまった。
そのころになってもまだ自分自身を自覚することができなかった。
私とあなたの境界線が消えていたからである。
「もちろんだよ、君はオレだ」
と、その若者は笑いながらそういって通り過ぎて行った。

私はポルトベロロードをゆっくりと歩きながら進んだ。
骨とう品の出店やさまざまなお店が並ぶ通りを抜けて、
シェパーズ・ブッシュ駅近くまで私は歩いていった。
すると突然向こう側から歩いてきた男に私は腕を掴まれた。
その男はくるりと私の手を返し、掌をじっくり眺めてから、
「君の内なる世界と外の世界は分離していて
完全にバランスを失っている。
危険な状態だとわかっているのか?」
鋭い目つきで私に向かって彼はそういった。

「何がどうなっているのかわかるのならぜひ教えてください」
「私についておいで」
と、その男はひとこと私にいった。
浅黒い顔をしていたので白人ではない。
言葉にもなまりがあるのでイギリス人ではなさそうだった。
ついていくべきかどうか一瞬私は戸惑ったが、
40代ぐらいだろうか、
目の前のこの男性を信頼する以外道はないと、
私はすばやく決心してついていくことにした。

「私のアパートはあそこを曲がったところにあるんだ。
ちょっと待って、ほら、あのティーポットどう思う?」
と彼は私に訊ねると、
骨とう品の出店の前で立ち止まり、
じっくりと古そうなポットを見つめた。

「これは死からのギフトだよ」

うれしそうに笑みを浮かべてそういってから、
彼はそのポットを購入した。
店の男はそのポットをくるくると雑に新聞紙で包んでから彼に渡した。
ビクトリア時代の雰囲気が漂っている、
面白い飾りをしたティーポットだった。
それにしても、そのティーポットのことをいっているのだろうか?
それとも、私のことを見抜いてそういったのだろうか?
私のことをなんとなく感づいているような目ではあった。

少し距離を保ちながら私は彼のあとをついていった。

VICTORIAN TEA POT

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魂の旅 その6 魔術師アルフレードに救われて
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私自身の過去について「魂の旅」というシリーズで投稿しています。
前回の「その5」では、19才の時にロンドンにて臨死体験をし、
その衝撃によって一時的に記憶喪失となった。
そして、ある土曜日の昼下がりにポルトベロロードで、
アルフレードという男性に偶然に出会い、
私の精神状態を一瞬にして見抜いた40才ぐらいの
その見知らぬ男性の後を私はついていった。
というところまでお話しました。(5月15日投稿)

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その人の名前はアルフレード・ボネット。
パリで8年間暮らしてからロンドンに移り住んだという
南米アルゼンチン出身の芸術家である。
白人ではなく、自分はインディオだと彼はいった。
簡単な自己紹介をしてくれているうちに、
あたり一帯にフラットがたくさん立ち並んでいる
一角にある建物の扉を彼は開けた。

狭い階段を五階ほど登った小さな屋根裏部屋が、
アルフレードの住処だった。
彼は買ったばかりのティーポットにお茶を入れてくれて、
厚くスライスしたライ麦パンのトーストに
たっぷり蜂蜜をのせて私に出してくれた。

彼の部屋の窓からは、
夕日が真っ赤に空を染めているのが眺められた。
「なんて、きれいな夕日」
と私が言うと、
「あの夕日のパワー、感じられる?
そのエネルギーを吸収することにしよう。
話さないように、沈黙でね」
アルフレードはそういうと、
私の向かい側にあぐらをかいて座った。
私たちは向き合ってずっと静かに座った。

そのまま一時間ぐらい経過した頃だっただろうか、
あたりは妙に静まり返っていた。
しばらくすると、私たちがいる小さな部屋の四隅から、
まるで海辺近くにいるように波の音が微かに聞こえてきた。
次第にそれはまるでビーチにでも座っているかのように、
ザーザーと押し寄せては引いていく潮として
はっきりと聞こえてきたのだった。

「一体、これはなに?」
私は黙ってはいられなくなって彼に尋ねてみた。
「しーっ、黙ってその音にだけ集中しなさい」
と、アルフレードはひとことだけ私に忠告した。
私たちはそのまま静かに座り続けた。

すると、今度はどこからともなく一匹のハエが
その部屋の中を飛んでいる音がした。
ブーンとそのハエは音を立てながら、
部屋の窓際の観葉植物がおいてあるあたりを、
飛んでいるのが私の目にとまった。

「見つめちゃだめだよ、
今の君よりもあいつのほうが強いんだから。
波の音に集中しなさい」
またアルフレードは私にそのように忠告した。

すっかり日が落ちると、
ゆっくりと彼は立ち上がり、
灯した蝋燭を私たちが座っている間に置いた。
「さあ、お茶を飲みなさい。
でも、あの音に集中したままだよ」

『この人はマジシャンだろうか?
それともあの変わった形のティーポットが
そうさせているのだろうか?』
心の中でそんな疑問を抱きながら、
私は冷たくなったお茶をすすった。

それを見た彼は、
「君は日本人なの?
そんなふうにお茶を飲むなんて。
腕が曲がって、カップに手が届き、
口元までお茶が運ばれる。
そして口に含んだお茶が喉を通って流れていく。
君はそれを観察しながらお茶を飲まないの?」

と、アルフレードは私にいった。
私は彼の言うとおりにして、
もう一口ゆっくりとお茶を飲んだ。
カップをもとの位置に置くと、
彼はもう一言私にいった。
「今度は蝋燭の明かりで出来た自分の影を見ながら、
もう一度飲んでごらん」
彼はもう一杯お茶を注いでくれた。

私は蝋燭の炎で揺らいでいる自分の影を見つめながら、
ゆっくりといわれたとおりにしてお茶を口にふくんだ。
ちょうどカップを戻そうとしたとき、
信じられないようなことが起きた。

その瞬間私は失われていた自分の記憶を、
はっきりとよみがえらせたのである。
カップを置いたその手が小さな生まれたばかりの私の手、
5才の時の手、今の自分の手とすべてつながっている、
なんとも不思議な感覚を覚えた。
思わず私は両手を広げて、
「わあ、私はずっと生きていたんだ。これも同じ私の手!」
私はそう叫ぶと、大きなあくびをした。
「いやあ、私は今まで眠っていたのですか?
はっきりと目覚めました、先生!」

この瞬間に私は過去、未来といった
時間のイルージョンから完全に脱出できたのである。
おこがましいかもしれないが、
完全に覚醒する自分を体験していた。
その瞬間に一時的に喪失していた今生の記憶が蘇ったばかりではなく、
今から思えば前世とも思える記憶が、
パッ、パッとまるでカメラのシャッターを下ろすように
すばやく何シーンか頭の中に現れるのを経験した。

何ともたとえようのないすっきりとしたあの時の感覚は、
その後も一生忘れられるものではなかった。
私の人生の最高の経験となった。

アルフレードの小さな部屋の時計に目をやると
夜中の2時をまわっていた。
夕暮れからその時までじっと座っていた自分に気づいた。

「その世界を保ちながら、そっと立ってごらん」
と彼は言った。

私たちはゆっくりと歩きながら、
ハイドパークを抜けてケンシントンにある私のアパートまで、
二時間ほど無言で歩き続けた。
私のアパートの前までやって来ると、
「この世界は今までの世界とちがって、
外と内なる世界が完璧なバランスで保たれているんだ。
今までずっとそこにあったのだけど、
君は今日その入口を見つけた。
君が見つけたんだよ。夕日の力を借りてね」
彼はそういってから帰っていった。

アルフレードから教わったことは、
私にとってこれがほんの入り口にすぎず、
ロンドンで私は魔術師アルフレードの元で
さまざまな魔法をその時から学ぶことになった。

magic 3

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魂の旅 その7 魔術師アルフレードから学ぶ
————————————————————-

アルフレードとの出会いによって、
私は臨死体験に伴う一時的な記憶喪失から回復できた。
そればかりかこの人生の始まり時点まで記憶が遡った。
自分の手のひらを見つめていると、
五歳のときの自分の手、
生まれたばかりの自分の手、
すべてその時見つめていた手のひらと一致した。
深い層の記憶を甦らせることができたのだった。
そのときの経験を今となって表現するのは無理だ。自分の手のひらを見つめていると同時に、
記憶喪失になるまでの人生で起きたことが、
パッパッとまるでカメラのシャッターが下りるように甦り、
そのとき見つめていた自分の手のひらと一致するのを
強烈な感覚で認識できた。
あれから43年近く経った今となっては、
それ以上あまり描写できない。あのときたしか、さらに手のひらを見つめていると、
自分の過去世と思われるいくつかの記憶までが、
パッパッと様々なシーンとして現れたのである。
それは過去、現在、未来といった時間の幻想から
完全に脱出できた束の間の体験だった。記憶喪失に伴うどん底にいた私は、
単なる直観の導きだけで、
まったく見知らぬ男性についていった。
彼の小さな部屋に辿りつき、
お茶を出してもらってその場で座ってから
気づかないうちに長い時間が経過していた。夜中の十二時をとっくに過ぎていた。
アルフレードが送ってくれるというので、
私たちはゆっくりと歩き始めた。
ハイドパークを抜けてケンシントンの私のアパートまで、
二時間ほど無言で歩き続けた。私のアパートの前までやって来ると、
「この世界は今までの世界とちがって、
外と内なる世界が完璧なバランスで保たれているんだ。
今までずっとそこにあったのだけど、
君は今日その入口を見つけた。
君が見つけたんだよ、夕日の力を借りてね」
彼はそう私に告げてから帰っていった。アルフレードから教わったことは、
これがほんの入り口にすぎなかった。
ロンドンで私は魔術師アルフレードの元で
さまざまな魔法をその時から学ぶことになった。あのときアルフレードと別れてから、
私は自分のアパートで床に就いたが、
眼は閉じることはなかった。
思考が完全に止まっていた。
目を開けたまま体だけを休める。
これが一週間ほど続いた。
夢見ることも思考もない。
いわゆる‘サマーディ状態’を、
何日間も持続させることができた。おそらく人生でいちばん澄み切った経験だった。
不思議なパワーに満ちている自分が感じられた。
というよりも自分はいなかった。
あるいは自分はすべてだった。

その一週間ほどの間に私は、
自分の腹にまるい地球を抱えているように
感じられるときがあった。
私は地球の母なのだ。
地球の悲しみもすべてを抱擁していた。
すべては自分の責任という深い感覚が何度か押し寄せてきた。

そうしているうちにまるで落下するように、
元の意識状態がじわじわと襲ってきた。
‘サマーディ状態’と普通の意識が交互に入れ替わる。
‘サマーディ状態’を求めるとどんどんそれは消えていった。
まるで自分が落下した天使のように感じられた。

そんな状態が一か月ほど続いたある時突然にして、
「ジョン・レノンが殺される」
という確信的な言葉が頭をよぎった。
これは大変だ。
どうにかして彼に知らせなければならない。
そんな使命感から私は、
当時ロンドンにあったビートルズのレコード会社だった
アップルに手紙を書いて送ったほどだった。
そのときから実際に彼が殺されたのは9年後となった。

今自らの人生を振り返ると、
あの時の強烈なサマーディ体験に戻るために
あれこれとずっと
スピリチュアルな世界を探求し続けてきたようだ。

あの臨死体験、
ロンドンの自由気ままな生活、
そして言うまでもなく、
アルフレードとの出会い、
この三つの組み合わせによって、
19歳だった私は並外れの数々の経験をすることになった。

私はアルフレードと出会った一か月ほど後にまた
彼のアパートを訪ねた。
またじっと座って瞑想するようにと指示された。
無言で座っていると、
またあの時のように、
部屋の四隅から波が打ち寄せるような音が聞こえ始めた。

「しゃべってはならない」
無言で彼の後について私は外に出た。
「いいかい、その世界を保ちながら、
人を観察しよう。
主観を外して人を観察するのだ。
ホーランドパークに行こう。
その前に目立たないように、
まず透明人間になる術を教えよう。」

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魂の旅 その8 パワースポットを探せ
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~飛べるかどうか疑った瞬間にその能力は永久に消える~

ジェームス・マシュー・バリー(ピーターパンの作家)アルフレードは滅多に語りかけてくれなかった。
しかし語ったときは、すばらしい教えに満ちていた。

「禅は無に到達する道だが、
魔法はそこからスタートする」
彼に教わる魔法の授業はほとんど野外で行なわれた。
バスにも滅多に乗ることもなく、
ひたすらロンドンの街を二人で歩いた。私たちはやっとホーランドパークに入った。
思考が止まった世界は、
動いていても周りの世界が静止したように感じられる。
周囲の音もどれひとつ気を引くほど大きくは聞こえない。
すべてが調和と静けさを保っている。
それを乱さないように
彼と一緒にゆっくりと私は公園内を歩いていた。「まずは、パワースポットを探そう」
と、彼は突然沈黙を切った。
彼が一つ見つけた。
公園の中のある場所を彼は指さし、
私たちはそこに向かった。彼が示した場所に着くと、
そこは公園の他の場所とまったく変わらなく、
緑の芝生が生えていた。
これといって目立って特別な場所ではなかった。じっとその場所を見つめるように
アルフレードは私に指示した。
すると
直径2メートルくらいの円形範囲が、
かすかに浮いていて、
さざ波が立っているのが瞬間的に見えた。
まるで3Dトリックの絵の中に、
あるイメージが浮いて見えるような感じだった。彼は私にその中に入るように言った。
その目に見えない円形に入ったり、
出たり繰り返してみるようにと。たしかにその円の中に入ると、
思考が止まった状態が強化され、
崩れそうになりかけていた別の世界に
ちゃんといられるパワーを得ることができた。「パワースポットだよ、
他にもあるから今度は自分で探してごらん」言われるとおりにして、
何ヶ所か同じような不思議な円のスポットを、
公園内に私は見つけることができた。パワースポットを見つけるコツがわかると、
次はその中で透明人間になる方法を
アルフレードは教えてくれた。どのようにそれができるようになったのか?
その方法を後に思い出すことはできなかった。
彼に導かれて入っていった別の世界のことは、
まるで夢に近いほどこの次元では記憶として
はっきりと残すのは不可能だった。ただ透明人間になることができた自分は、
公園内を裸で歩いても誰も気づくことはないという
自信に満ちていた。
実際に円の中から出て歩くと、
誰も私たちを見たり、振り向いたりする
通りすがりの人たちはいなかった。「けして誰とも目を合わせてはいけないよ」
私はアルフレードの言葉をちゃんと守りながら、
まるで自分が裸の王様になったような気分だった。私たちはベンチに腰掛けた。
小道を隔てた向かい側に老人の男性が,
座りながら新聞を読んでいた。

「ほおら見てごらん。情報が好きなんだ・・・彼は」
アルフレードはまるで珍しい動物か昆虫を
観察しているかように、

その老人について私に一言述べたあと、
しばらくその老人を私たちは観察していた。
それからまた別の場所に移動して
他の人間やクジャクを観察した。
別のパワースポット探しもした。

あのような特別のパワーを
受け取ることができる、
直径二メートルくらいのパワースポットは、
日本でも私はなんどか見つけたことがある。
何の気なしに訪れた神社の境内に、
そんな場所が隠れていることがある。
それにしてもロンドンの街には、
そんなパワースポットがところかまわず
散らばっていた。

私がそれを見つける能力が薄れたのかもしれない。
アルフレードから教わる魔法の授業の基本は、
パワースポットを見つけて、
別世界に居続けるパワーを充電することだった。
そして、静かに座っていると
部屋の四隅から
まぎれもなく波打つ音が常に聞こえてきた
アルフレードの小さな屋根裏部屋も、
他とは違う特別のパワースポットだった。

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魂の旅 その9 数秘のレッスン
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ロンドンで生活していた当時19才の私は、
アルフレードによって
壊れかけていた自分の意識をちゃんと戻してもらったばかりか、
とてつもなく不思議な、
今風にいえばシャーマン世界への扉を開くことになった。思考と世界を静止させる方法を彼から学んだのである。
その世界は今でもまれに、
瞑想をすると瞬間的に訪れることはあるが、
もはやほとんど経験することはない。ホーランドパークでパワースポットを探したあの時から
私は彼が見せてくれた世界に夢中になり、
学校が終わってから何度も彼のところに足を運んだ。
シェパードブッシュでバスを降りてから、
同じような建物が並ぶ近辺を通り過ぎて
彼のアパートに向かおうとしたが、
不思議と見つからないことを何度も経験した。まるで迷路に迷い込んだかのように探せなかった。
実際にアルフレードという人物が
存在するのかさえ疑うこともあった。すべては夢の中の出来事だったのか?
私はあきらめて家に戻っていった。
そうして一か月も過ぎることすらあった。どうしても会いたくてまた彼の家に足を運んだ。
今日は絶対に会えるという予感があったときだけ
彼の住処を見つけることができた。
一階の入り口でベルを鳴らすと、
彼は降りてきてくれた。「今日は私のアトリエに行くかい?」その日は部屋の四隅から波打つ音が聞こえる
彼のアパートに立ち寄らずに
一時間ほどまた例の如く互いに一言も語らず歩いた。
アルフレードのアトリエは、
たしかあるビルの地下にあった。
中は広くて5、6人の若者たちがいた。
部屋の中央にはエッチング用の機械が置いてあった。

皆はそれぞれ作品をつくっていた。
アルフレードは私にひとり一人を紹介してくれた。
アルゼンチン、コロンビア、メキシコ人など、
全員中南米の若者たちだった。
彼らは皆アルフレードといっしょに
パリからロンドンに移り住んだという。

周囲には個性あふれる模様の銅板が、
壁を埋め尽くしていた。
それらすべての作品は、
彼ら全員の生活を支えている売り物であることに
私は気づいた。
たしかポルトベロロードのある店にも
エッチングされた銅板が額縁されて
置かれていたのを私は思い出した。
同じ方法で削られて裏に皮がついた腕輪も
あちこちのお店で見たのを私は思い出した。

『なるほど、アルフレードの仕事はこれなのか・・・』
不思議なアルフレードではあるが、
少し現実味が帯びてきた。

しかし、彼の弟子たちは皆私のことを
気に入っていないとすぐに私は気づいた。
皆彼の仕事仲間というだけではなく、
それぞれが彼の魔法の授業の生徒であることも
すぐにわかった。
要するに私が最近、
先生を独り占めにしていることが、
気に食わなかったのである。

皆のことを察したのかアルフレードは、

「彼女なかなか素質があるんだ」

と、弁解するような口調でいった。
彼の言葉を誰もが無視しているように思えた。

私たちはアトリエを後にして外に出た。

アルフレードと私の沈黙の了解は、
外を歩くときは言葉を必要以外交わさないことと、
意識は人やモノに集中させないこと、
そして、世界が静止する状態へと
なるだけ早く辿り着くことだった。
そのためにパワースポットをまず見つけて、
その中で世界が変わるように導くことだった。

そのあとアルフレードは、
たいてい学びの課題を与えてくれた。
その日はナンバーだった。
今風にいえば数秘のレッスンである。

12番のバスがむこうからやってきた。
「あれだ!」と彼はいった。
バスが目の前の停留所に止まると、
私たちはそのバスにとび乗った。

そのあとシンクロの運びと共に
私たちはひたすら12というナンバーを追い続けた。

『もう夜が明けそうになっているのに、
いつまでこのゲームは続くのだろう・・・』
私は疲れながらそろそろいやになってきていた。

「さあ、今日はこれくらいにしようか。
12のことが見えてきたかい?」

私は、「いや、なにも」
という顔で彼を見つめた。

「眠りにつくと12からきっとメッセージが届くよ」

あの日のレッスンはほとんど思い出せないが、
あのあとアルフレードと別れてから、
ベッドに入った私は不思議な夢を見た。
それだけ今でも覚えている。

アルフレードとは、
あれからまたなかなか会えない状態が続いた。
そして次に出会えた時は、
また異なるナンバーをシンクロで追う。
これが数か月も続いたのちに、
今度は動物を知るレッスンへと変わっていった。

今度は動物を知るレッスンへと変わっていった。

——————————————————-
魂の旅 その10 共時性に生きる
——————————————————-

数字の共時性を追っていく学びは、
ある日は3ならば、次回は17といったように、
その日最初に出会った数字をもとに
ランダムに展開していった。

目の前に現れた数字と同じ数を
数日後にまた追うこともあった。
そうしているうちに特定の数字に対して
友だちのような感覚が生まれてきた。
中にはとっつきにくくて、
私たちを避けているような数も発見した。

ぴょんぴょん跳ねるような性格の数、
おとなしくて親しみやすい数、
さらには関係性の深い色を示してくれる数、
数そのものが持つバイブレーションを
私は感じ取れるようにだんだんなっていった。

すると共時性を追うことから
数のほうから進んで現れてくれるといった
なんとも奇妙な状態に入っていった。

『なるほど、これをアルフレードは
私に経験させるためだったのか』

まさに引き寄せを自由に操るレッスンとして、
数の性質を感じ取り、知ることから始めたわけだ。

アルフレードは天体の動きにも詳しかった。
ある時彼のアパートを訪ねると、
妙な顔をして空っぽになったジャムの瓶を、
2つ私に見せてくれた。

「金星のせいだよ。
金星が空のあの位置にくると、
決まってこうなるんだ」

アルフレードは窓を開けて、
空で一際輝いている星を指さして私に示した。

「パンにつけて食べたのですか?」

「いや、ジャムだけだ」

『なんと変わっている・・・』

内心私はそう感じたが黙っていた。

アルフレードの食生活は常に、
天体の動きに合わせたものであることに、
やがて私は気づくようになっていった。

それ以上に驚いたのは、
彼の生き方は、
いつもサインが現れるのを待ってから、
シンクロの導きによって行動に移すことだった。
自らの自我に任せた行動は、
ほとんどとらないに等しかった。

つまり、私にナンバーのレッスンを、
手ほどきしてくれたような方法で
なにごとに対しても彼は常に行動していた。

「人間は自我に振り回されて、
実に無駄な行動をとるようになった。
ちゃんとサインが送られてくる前に
腰を上げるから、
すべてのタイミングがずれて、
混乱を自ら招くようになる」

これは私にとって生涯かけがいのない教えとなった。

私は30年近く前から再び
シャーマンと呼ばれる北中南米の先住民たちから
個人的に教えを受ける機会に度々恵まれたが、
彼らすべてに共通する基本は、
この教えだった。

【タイトル画は、arie Binderの作品です】

 

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